小説家志望者の仕事 

 文系の人間ならほとんどの人が一度は作家になることを夢見るものです。しかし、実際に文壇にデビューして原稿料や講演だけで食べていける人はごくごくわずかです。夢を追いかけて年齢を重ねる夢男君、夢子さんは音楽や演劇の世界に掃いて捨てるほどいますが、小説家を目指す人もかなりの数にのぼるでしょう。
 しかし、生きるためには食べていかなくてはなりません。デフレで食料品価格が下落したため、住む場所さえあれば食べていくのは楽になりましたが、それでもある程度のお金は必要です。経済援助を惜しまない親や伴侶に恵まれていれば幸運でしょうが、多くの小説家志望者はデビューするまでほかの仕事をしなくてはなりません。また、運よくデビューできても、ずっと小説だけで食べていくのは至難のわざと言われています。
 そこで、小説家志望の人におススメの職業を紹介します。

 小説家志望者向けの仕事は、目的別に次の3通りに大別されます。
(1)執筆時間が得られる仕事
(2)文章力を活かせる/磨ける仕事
(3)小説の題材が得られる仕事

(1)執筆時間が得られる仕事
 まず第1にあげられるのは地方自治体職員です。理由は「楽な仕事」で述べたとおりです。ただし地方自治体職員と一言でいっても実態はさまざまで、多忙な部署とヒマな部署が混在しています。田舎の支所勤めや外郭団体への出向者なら、たぶん執筆の時間がじゅうぶん得られますし、職務時間中に構想を練ることもできます。
 前職が公務員の作家をあげると、阿刀田高は国立国会図書館の司書で新田次郎は気象庁職員でした。池波正太郎と童門冬二は東京都庁、立松和平は宇都宮市役所、ミステリ作家の斎藤栄は横浜市役所、篠田節子は八王子市役所のそれぞれ職員でした。
 公務員以外でも、時間は拘束されても肉体だけ使って脳や神経をあまり使わない仕事なら、小説の構想や表現の案出に時間を割けられます。芥川賞作家の中上健次は確か肉体労働で稼いでいたと思います。『亡国のイージス』の福井晴敏は「警備員生活があまりにも退屈だったので小説の執筆を始めた」と言っています。
 営業職・販売職は就業人口でかなりの割合を占めますが、有名な作家で前職が営業だったという人はあまり聞いたことがありません。あえて「前職は営業でした」と口にする作家がいないだけかもしれませんが、営業に求められる正確なコミュニケーション能力は、想像力の発動を阻害するのではないかとも思っています。
 企画職はわりと創造性を要するように見えるため、小説家志望者が好む仕事ですが、ビジネス書ばかり読んでいると小説に必要なみずみずしい感性を失ってしまいがちです。ビジネスというのはひょっとすると文学の対極にあるのかもしれません。いずれにせよ「会社文化」に合わせて神経をすり減らすような職場はパスしましょう。

(2)文章力を活かせる/磨ける仕事
 給料・報酬を貰って文章や言葉のセンスを磨けるという点で、学者や翻訳者編集者新聞記者フリーライターコピーライターは作家志望者におススメです。そもそもその職業自体が、ある程度の文章力を要求しているわけですが、多くの人に読まれ批評される経験を積み重ねることで、文章力・表現力にさらに磨きがかかります。
 コピーライター出身の作家は数多く、山口瞳や宮本輝、中島らも、林真理子、奥田英朗、喜多嶋隆、原田宗典、内田康夫、都筑道夫、石田衣良などがいます。藤堂志津子、伊集院静、荻原浩、藤原伊織、逢坂剛も広告代理店に勤務していました。
 小説家を目指していて編集者になる人はたくさんいます。多忙のため小説を書く時間が得られない、という話を聞いたことがありますが、それでも直木賞作家の村松友視は吉行淳之介の担当編集者でしたし西木正明も編集者出身です。
 もと新聞記者の作家には、夏目漱石をはじめとして、井上靖、司馬遼太郎、三角寛、現代でも山崎豊子や井沢元彦、横山秀夫などがいます。
 大学講師も論文執筆で文章力を磨けますが、論文と小説では求められる文章力が大きく異なります。また、最近は大学講師も競争が激しく多忙のようで、趣味で小説書いてますというわけにはいかないようです。それでも工学博士の森博嗣などの例があります。
 校正の仕事は文章を正確に書くために必要な訓練になります。ただし、出版社に勤めて小説やエッセイの校正をするのなら良いのですが、校正の仕事の多くは一般企業の広告物や社内報、社史、カレンダーなどで、小説に活かせる部分は少ないようです。しかし、作家になったあと、他の人による校正が要らないとなれば、出版コストの面でも理想的です。もと校正の作家といえばなんといっても怪奇作家の倉阪鬼一郎です。彼は印刷会社の文字校正係として11年間働き、校正の現場で出くわした珍事件の数々を『活字狂想曲』のなかで紹介しています。それにしても彼の場合、実際のところ他人の校正は入っていないのでしょうか? 入っていないとしたら、校正者に回るはずのお金はそっくり彼のものになっているのでしょうか?

 『活字狂想曲』 倉阪 鬼一郎 (著) 幻冬舎 (2002/08)



(3)小説の題材が得られる仕事
 主人公の日常をリアルに描くとなると、どうしても職業のディテールに触れなくてはなりません。作家としてデビューすればある職業の人を取材するのは容易ですが、デビュー前にはなかなか難しいものです。興味深い仕事に就いた友人たちに恵まれていれば別ですが、概して小説家志望者には友達が少ないものです。
 そうすると自ら書きたい世界に飛び込むしかありません。たとえばミステリを書くなら弁護士裁判官警察官探偵、司法解剖医、などという風に。実際に犯罪者になってみるのもひとつの手ですが、これは言うまでも無く違法です。警察のなかでも科学捜査研究所科学警察研究所鑑識課、情報システム部門などはネタの宝庫でしょう。科捜研はドラマにもなりました。現実にはそんなに面白いネタは転がっていないでしょうが、読者の立場から言っても、しっかりしたディテールを描ける作家が欲しいところです。自衛官家庭裁判所調査官なども面白そうです。ホリエモンや村上ファンドの事件でファイナンシャル業界が脚光を浴びており、幸田真音のようにマネーの世界をきちんと描いて小説としても面白い作家が、もうあと2,3人いて欲しいものです。
 興味深い職に就けたからといって、想像力や表現力をおろそかにしては優れた作家になれません。せいぜい小説ならぬ暴露本を1冊書いて終わってしまいます。また、仕事で面白い体験を次々にすると、自分の人生という小説を「執筆」するのでなく「行動」する方向に走ってしまいがちです。一般的に言って、そのほうが幸せかもしれませんが。
 成功者や実業家には特殊な感性の持ち主が多く、そうした人たちをつぶさに観察できるという点で、クラブのママやホステス、ホストやバーテンダーは作家志望者におススメです。実際、直木賞受賞作家の山口洋子や芥川賞受賞作家の山田詠美はデビュー前にクラブで働いていました。ほかにも室井佑月などの例があります。
 また、生命の尊厳という大きなテーマに常日頃から触れられる点で、医師は作家志望者に向いています。もと医師や現役医師の作家には、古くは森鴎外、阿部公房、北杜夫、現在も渡辺淳一や加賀乙彦、帚木蓬生、南木佳士などがいます。

 職業に伴う現実は内情を知らない人にとって「へえー、そうなんだー」と思えることが多々あります。どんなに平凡な職業でも視点や文章表現によっていくらでも面白くなるという人もいますが、読者にとって「覗いてみたい」仕事があるのも事実です。
 主人公の職業は小説の本質ではないとはいえ、極めて重要なファクターであることは間違いありません。職業によって主人公の経済状況や空き時間、知識、行動範囲、交友関係、性格、考え方まで左右される場合が多いからです。職業を選択することは世界を選択することです。村上龍が『13歳のハローワーク』を執筆した背景にもそうした考え方があるのだと思います。
 蛇足ですが、本サイトの各ページでは、それぞれの職業の具体的な仕事内容やなり方を描いた本、いわゆる「なるには本」を紹介しています。こうした本は小説家志望の方にとっても登場人物の職業を描くうえで参考になるでしょう。よろしければクリックしてご購入いただけると幸いです^^;

 『13歳のハローワーク』 村上 龍 (著)  
幻冬舎 (2003/12/2)



 

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